穏田川の水車
今から250年もの昔から穏田川のほとりに水車がかけられ、コットンコットンと米をついていました。
学校の近くには、石田(くろんぼとも言われていたそうです、)村越、鶴田などの水車がありました。
しかし、時が流れ、伝家が進むにつれて、水車業はおとろえ、ほとんどの水車が大正のおわりころまでにすがたを消しました。

神宮前小学校に復元模型があります。
学校の水車はむかしと同じようなしくみになっていて、米がつけるようになっています。


神宮前4-20-12 神宮前小学校

富岳三十六景「隠田の水車」
穏田は、現在若者で賑わう原宿、渋谷区神宮前の辺りで、渋谷川一帯にあり、かつては畑地や水田など、のどかな田園風景が広がっていました。
画面左側には水車からあふれる水が力強く描かれており、画面右側には対照的に静かにたたずむ富士が描かれています。
水車小屋の近くで働く人々の姿を描くことで、さらに動きを感じさせる作品になっています。

現在の明治神宮のあたりに当るが、その昔は江戸の郊外であった。
水車小屋が主体であり、それよりも「水」の描写が北斎の芸術を遺憾なく現わしている。
さまざまな水の流れの形態の真がとらえられている。籾をかつぐ農夫2人、流れ水で米をとぐ農夫、亀の子をもつ子供、それらの人物が遠く望む富士を千変万化する水流の動きとを背景に、心地よい田園の風景を作り上げている。



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表参道に参道橋という石塔が建つ。いまは暗渠になった渋谷川にかかっていた橋の欄干の親柱です。
渋谷川は葛飾北斎の富嶽三十六景「隠田の水車」に出てくる川であり、旧隠田川です。 当時は富士山の姿がここから観れたといわれています。


穏田川

葛飾北斎『富嶽三十六景』より「穏田の水車」。現在の神宮前三丁目・「はぁとぴあ原宿」近辺から、同六丁目・バーバリー渋谷店のあたりまで、北東~南西に細長い川沿いの一帯が、一面に水田の広がる穏田村であった。

穏田川(おんでんがわ)は、東京都新宿区から渋谷区にかけてかつて流れていた川である。


穏田川は玉川上水の余剰水を受けていたために豊富な水量を誇り、往時には、よく知られた「穏田の水車」をはじめ、いくつもの水車掛けが見られたという。

上水の廃用以降、周辺の宅地化とともに徐々にドブ川化が進行し、1964年東京オリンピックを前に全面的に暗渠化された。
現在、東京都下水道局の管理する下水道がその後身であり、千駄ヶ谷幹線と呼ばれている。

なお、かつての穏田川は渋谷駅付近で宇田川と合流しており、合流地点より下流を渋谷川と呼ぶが、古い文献などでは穏田川に該当する部分も渋谷川と呼んでいる場合が多い。


穏田川の源頭地、新宿御苑


暗渠の上の街・キャットストリート。
穏田川(渋谷川)の地形上の源頭は新宿御苑内にあり、苑内でさらに2つに分岐する形になっている。
1.苑内東部の玉藻池 ただし池自体の湧水はわずかしかなかったらしい。そのかわり、池からさらに200mばかり北の地点に玉川上水の水番屋があり、人工の水路を通じてここから大量の水が来ていた。水番屋では市中配水量の調整を行っていて、余った水は全てこちらへ排水していたためである。
2.苑内南部・西部の谷筋(“千駄ヶ谷”) 現在は庭園の一部となっている「下の池」「中の池」「上の池」の順に北西へ遡り、さらに北の「母と子の森」と呼ばれるエリアから苑外の新宿高校、天龍寺にかけてのあたりに湧水源があったとされる[3]。古地図を見ると、天龍寺の境内には池があったことがわかる。

ふたつの源流は南東側へと流れ出て、千駄ヶ谷駅の東・外苑橋のあたりで合流していた。



現在の外苑西通りに沿うようにして南下、神宮前二丁目・竜岩寺(龍巌寺)付近で南西へと流れを変える。
そこから先は、くねった川筋がそのまま道路になっているため、地図の上でも分かりやすい。

ほどなく道が旧渋谷川遊歩道路と名を変えるあたりで北西からの流れを受け入れる。
これは原宿川、原宿村分水とも呼ばれた支流で、代々木三丁目・文化女子大学から南新宿駅あたり、および明治神宮内の北池に源頭をもっていた。

旧プロペラ通りとも呼ばれる裏原宿エリアから、表参道を渡りキャットストリートと呼ばれるエリアに入り、アパレルや雑貨のショップの並ぶ神宮前五丁目・六丁目のあたりがかつて穏田村の集落のあった一帯である。
注意深く見れば、「穏田橋」と書かれた欄干のモニュメントなどを見つけることができる。

またこのあたりで、明治神宮南池からの流れが合流していた。

宮下公園の傍らで現在の明治通りを横切り、駐輪場のある場所を流れ、渋谷駅ビル・東急百貨店東横店にぶつかる直前、かつて架かっていた宮益橋のたもとで、西から来た宇田川と合流していた[5]。穏田川と呼ばれるのはここまでである。その後はもっぱら渋谷川と、さらに下流は古川と呼ばれつつ、東京湾に注いでいた。


1.場所柄、明治期には工業用の水車も見られた。新宿御苑の東にあった眞崎鉛筆製造所(現・三菱鉛筆)の工場が有名である。
2.現在、大雨時を除き、千駄ヶ谷幹線の下水は渋谷川に流れ込んではいない。宮下公園交差点から下流は明治通りに埋設された幹線を通って、芝浦水再生センターまで送られている。渋谷川は事実上、源流を失った形になっている。
3.『ブラタモリ』「渋谷」編(2011年3月31日放送)では、天龍寺にあった湧水について紹介している。
4.竹下通りの一本南・通称「フォンテーヌ通り」のルートを流れていた。なお、通りの名は泉の意にもとれるが、実際にはシンボルの噴水と商業施設にちなんだもので、偶然のようである。
5.^ 現在の下水道の合流地点はやや上手・宮下公園交差点付近。


渋谷川上流(終)姿を現す渋谷川

bf25cc01.jpg東急百貨店東横店の地下を通って渋谷駅の南東側で暗渠の区間が終り、渋谷川が地上に姿を現します。水はほとんど流れていません。
現在の渋谷駅東口のバスターミナルのところには18世紀末より「宮益水車」が設置されており、明治初期にはこの水車の利益金で現在再開発中の東急文化会館の敷地にあった「渋谷小学校」の運営をしていたそうです。(なお、渋谷駅は今よりも南寄り、埼京線ホームのある辺りにあった)
暗渠が地上に出るところには「稲荷橋」が架かっています。
現在国道246号線が通っている敷地に、かつて橋の名前の由来となった「川端稲荷(田中稲荷)」があって、銀杏などの木々が生い茂っていました。
大正期、境内の鬱蒼たる大木が渋谷川の流れに影を落としていた。「川端稲荷」の名にふさわしい、水辺の社であった。殊に夏は涼しいから、鳥居の傍の茶店で氷を売っていて、。荷車曳きや金魚売りが休んでいる姿が見られた。
大正期には川を跨いだ「川上家屋」が何軒か建っていたそうです。



Wikipedia参照



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