穏田村・穏田神社

葛飾北斎「隠田の水車」
葛飾北斎「隠田の水車」

穏田の名前の由来

●北条氏の家臣「恩田某」の居住地、関東管領上杉定正の臣「恩田五郎右衛門の隠棲」の地という説

●田制の「カクシ田」「隠し田」(領主に税をとられないように隠していた田んぼ)に因む説

●家康は信頼していた伊賀忍者の一族郎党を、この辺りに住まわせたそうです。
  忍者の隠れ里ということで『隠田』と呼ばれていたという説

「隠田」→「穏田」に変化。

穏田の名前は古くからあり、江戸時代の画家、葛飾北斎の「富嶽三十六景」の一つに「隠田の水車」という浮世絵があります。

住所の変遷
●江戸時代 穏田
●明治元年(1868年) 穏田村
●明治22年(1889年) 千駄ヶ谷村大字穏田
●昭和7年(1932年) 渋谷区穏田 (穏田1丁目~3丁目)
●昭和40年(1965年) 住所としての穏田の地名が消滅
(隣接する原宿、及び竹下町の町域とあわせて、渋谷区神宮前の一部となる)


★穏田は、現在の渋谷区神宮前1、4、5、6丁目を指す地名。
★現在「神宮前」と呼ばれる地域には、明治22年以前には「穏田村」「原宿村」の二つが存在。
★昭和7年に「穏田」「原宿」「竹下町」となり、
★昭和40年に「神宮前」という町名に変更。

 「穏田」「原宿」ともに歴史のある名前であるためにどちらにも決めかね、
明治神宮の前にある地域ということで「神宮前」に決定。

 現在、原宿・穏田ともに行政上の地名としては残っていません。
ただ、原宿は駅名にも残っており、有名ですが、「穏田」はあまり知られていません。

葛飾北斎「隠田の水車」
葛飾北斎「隠田の水車」

渋谷で最も有名な「穏田の水車」は、渋谷川にありました。
原宿の地域は江戸時代には穏田と呼ばれていましたが、
葛飾北斎がこの水車を『富嶽36景』の中で描きました。
今では想像もつきませんが、昔は、のどかな農村だったのです。
「穏田の水車」は、渋谷川暗渠が竹下通りから来た道と交わる辺りにあったと言われています。


渋谷川について
渋谷川・古川は、渋谷区内の宮益橋から天現寺橋間の2.6kmを渋谷川、港区内の天現寺橋から河口間の4.4kmを古川と呼んでいます。
また、本川(宮益橋)の上流域と支川は、すべて暗渠構造で下水道化されており、本川の稲荷橋の下流から開水路となり、JR浜松町付近で東京湾に注いでいます。

渋谷川・古川あわせて、流域面積は22.8km2、河川延長は7.0kmの二級河川です。
渋谷川の近くには、かの有名な、統一教会本部があります。

東京都建設局HPより

穏田神社

〒150-0001 東京都渋谷区神宮前5丁目26-6

JR山手線「渋谷駅」13出口より、徒歩6分

JR山手線「原宿駅」より、徒歩10分

営団千代田線「明治神宮前駅」7出口より徒歩7分

都バス・「渋谷駅」東口より池袋東口、早大正門行「神宮前6丁目」下車 徒歩3分

表参道駅A1出口から徒歩約10分
穏田神社は、渋谷区神宮前にある神社です。
穏田神社の創建年代は不詳ですが、江戸時代には日蓮宗の妙円寺が勤め,,
第六天社と称して隠田村の鎮守社であったといい、明治維新の後 隠田神社と社号を改めたといいます。



穏田神社は旧渋谷区穏田の産土神として、古く天正年間(一五七三-八五)においては荒涼たる環境にあったが、徳川家康が江戸に入るや、天正十九年穏田の地を伊賀衆に賜わり給地となる。これよりこの地次第に開け、徳川時代には別当を日蓮宗の妙円寺が勤めていたが、明治維新のさい、穏田神社と改称する。明治時代になると明治四十四年社殿・神楽殿・手水舎・社務所・鳥居・石段を新築または改造する。御大典の記念事業として施設まったく完備したが、昭和二十年五月二十五日の戦災により神輿庫を除きすべて焼失し、現在の社殿は罹災後、氏子の協力と、篤志崇敬者等により社殿・末社稲荷神社・神楽殿・手水合が完成し、その後、社務許も建設され、境内も整備され、祭祀も年ごとに盛大に斎行されている。
(東京都神社名鑑より)


六天神社について

(だいろくてんじんしゃ)は、関東地方(旧武蔵国)を中心としてその周辺に存在する神社。なお、神社によっては第六天を「大六天」と表記する場合もある。


元々は神仏習合の時代に第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建されたものであるが、明治の神仏分離の際、多くの第六天神社がその社名から神世七代における第六代のオモダル・アヤカシコネ(面足命・惶根命)に祭神を変更した。

『日本民俗学 No.127』によると、『新編武蔵国風土記稿』より三百二十余社、『新編相模国風土記稿』より百四十余社、『増訂・豆州志稿』より四十余社の「第六天神社」を確認できたとあるように江戸時代末までは関東を中心に多く存在したが、前述の神仏分離によって改称あるいは他の神社に合祀や相殿、末社となり、祠のようなものも数えれば現在でも三百余社あるものの、宗教法人格を持つような独立神社としては珍しい存在となっている。なお、現在では東京都と千葉県の県境近辺に多く所在しており、神奈川県内において神社庁下の独立神社は二社に留まる。

一方、第六天神社が所在する分布にも大きな特徴があり、東日本において関東の旧武蔵国を中心に旧相模国、旧伊豆国などに存在するが、西日本では皆無となっている。これは神奈川県神社庁の 『かながわの神社ガイドブック』(1997年、かなしん出版)によると、戦国時代の覇者である織田信長が篤く信奉していたとされることから、天下統一の跡を継いだ豊臣秀吉が第六天の神威(しんい)を恐れ、拠点としていた西日本の第六天神社を尽く廃社したためという。なお、信長が信奉し自ら「第六天魔王」と名乗っていたとされるのは、イエズス会宣教師ルイス・フロイスの書簡の中で紹介されている、武田信玄と信長が書状のやり取りをした際の話からきており、それによると「信玄がテンダイノザス・シャモン・シンゲン(天台座主沙門信玄)と署名したのに対して、信長は仏教に反対する悪魔の王、ドイロクテンノ・マオウ・ノブナガ(第六天魔王信長)と署名して返した」とされるが、実際に自ら名乗っていたという文献などは他に存在しない。

この他、祭神については前述の第六天魔王から神世七代第六代の神に変更されたケース以外に、東京都墨田区押上や葛飾区西亀有の高木神社(旧称:第六天社)のように高木の神(タカミムスビ:日本書紀では高皇産霊神、古事記では高御産巣日神)を祭神としている場合やそもそも第六天魔王とは関係がなく天神を祀っている神社もある。また、埼玉県飯能市の第六天神社では第六天魔王は天狗であるとされ、さいたま市岩槻区にある武蔵第六天神社でも天狗と関連付けられている。
wikipediaより

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